農業・絵本・町おこしが織り成す新たな農業のやり方

2019.1.30

「挑戦」と言う言葉は凄く颯爽としていて、やる気を奮い立たせてくれる。

挑戦は目標の実現や自分自身の成長などのメリットだけでなく、色んな人と衝突したり、失敗した時は心が傷つき、気疲れしたりとデメリットも背中合わせでいる。

何か新しい事を始めようと思っていても、賛同してくれる人が周りにいなかったり、自分に自信がないと行動しにくいと思う。

そんな中、

「来たいと思った時にいつでも遊びにこんね」

「これからは、若い人の駆け込み寺になりたい」

そんな温かい言葉を言ってもらえるだけで、自分にも帰る場所があるんだとつい思って、気持ちが「ホッと」する。さらに、挑戦をしようとしている人の背中を押している気がする。

こう話すのは、熊本県御船町で自然栽培農家として農業の第一線を今も昔も走っておられる河地和一さん。


河地和一
自然栽培農家  昭和36年3月17日生まれ現57歳  1978年高校3年生の時から学校に通いながら並行して有機農業を始められ2002年にJAS有機農産物・加工認定取得2004年に熊本県の食品コンクール入賞。2010年に青森に行き、ねぶたの力強さに魅了され、翌年2011年に御船町のねぶた1号を作成。毎年一台ずつねぶたを作られ、4号が作られる2014年に絵本「ガオー!」を作られ、今は御船町美術工芸協会 会員 みふね恐竜ねぶた制作リーダー 河地愛農園 園主を務められる


キャリアはとても異色で、自然栽培・町おこし・絵本の作成など様々な活動をされており、人生において根っからの仕掛け人だ。そんな河地さんの考え・想いが知りたくて色々質問をぶつけてみた。

ねぶたで町起こし!?原動力は地元が好きすぎるから

――なぜ、ねぶたで町おこしをしようと思ったのですか?

河地:2010年東日本大震災の一年前に家内と結婚して25周年だった時に、青森にねぶたを見に行きたいというと、家内はひなびた温泉に行きたいと言ってくれたので行くことになった。

いざ行って、本物のねぶたを見た時は感動した。色んな人との出会いがあり丁度その時町おこしをしていて、ねぶたを作ってみたいという好奇心はあった。そしたら、2011年に東日本大震災が起きたので東北の皆さんへのエールと思い、最初の一号を作って御船町の祭りに出すことで、作品を残すことを決意した。

――そこからどういった経緯で絵本作成をしたのですか?

河地:御船のねぶたは全部で5台あり、一台一台にストーリーがあり、そのストーリーを繋げたのが絵本だった。

恐竜の里である御船町を舞台に、恐竜の温かみある物語。河地さんの独特な絵のタッチや言葉では綴らない想いも描かれている。ちなみに「ガオー!」は河地さんの全額実費

コンテストで全然入賞したことはないけど、好奇心で書いてた。一番いいのは、こういう作品が残るっていうのが一番いいよね。人は勝手に想像するし、自分なりに足跡が残せる。お金ならそういうものに使った方がいい。

絵本を作れば作品は自分が死んでも残る。河地の歴史を残したかった事と、自分が周りの人たちから受けた恩恵をこういう形で表現したかった。

泣かず飛ばずでいいじゃん

――絵本の反響はどうでしたか?

河地:周りの人からの反響は凄く良く、色んなお褒めのお言葉を頂いた。でも結局、売り上げは泣かず飛ばずで終わっちゃったね。

思うんだけど、普通は泣かず飛ばずの人生がほとんどなんじゃないかな。

オリンピック選手は夢を追いかければ、メダルは取れるって言うけど、そんなわけ無いじゃん。才能があってもダメな人はいるし、でも走るんだろうけど。若いって特権だと思う。泣かず飛ばずで終わるのなら、自分に正直になって悔いが残らないように思いっきり本気を出してぶつかって欲しい。

 

――「ガオー!」は英語で翻訳されていましたが、海外では何か国で愛読されているんですか?

河地:翻訳されているのはまだ英語だけで、アメリカ・ニュージーランド・ウルグアイなど5ヶ国ほどで読まれている。

応援者から外国の御友人に絵本を送ってもらい、海外からも感想のお手紙を頂いた。

新聞で実際に取り上げられた記事

――町おこし×絵本作成×農業(自然栽培)様々な事をされていますが、その3つのトライアングルから何が生まれましたか?エネルギーの源も教えて頂きたいです。

河:やっぱり、少しでも町が明るくなって欲しいと言う気持ちが大きくてがむしゃらに頑張っていた。当時は20代でこれをして30代ではあれをして、色々区切りをつけて行動をしていた。

すべての物には物語があって作られている。ねぶたや絵本を作って思ったのが、農産物を何十年使っても消える。お米作ろうがなんでも農産物と言う作品は消える。でも本などの出版物はずっと残る。だから、少しでも自分が作った物が残って欲しくてジャムや焼酎を作ろうと思った。

河地さんが作った2つの焼酎。ラベルは河地さんが作成された。

十郎は先祖の名前と町おこしを10人で組合を作って活動したので、その10(十)もかかっている。
ガオーは絵本を作った際に記念で作った焼酎

全くやる気が無かった農業。変えたのは父の一言

――農業(自然栽培)をしようと思ったきっかけは何ですか?

河地:僕の家は小さな家で、広い土地や大型の機械があるわけでは無かった。農業は土地がいったり、色々な条件が必要だが他の農家に比べて農業をするには不利な環境だった。

実際に小さい時からそういう親父や爺さんの姿を見てきて身に染みて感じてはいた。

小さい時からずっと親父から務めたが良いぞと言われていて、そういう人生路線が作ってあった。公務員に興味があって、当時は国家公務員に凄くなりたくて、夢だった。彼女にも友達にも公務員になるって言ってたくらい(笑)。

でも、14歳の時に親父の持病が悪化して亡くなった。3月17日が僕の誕生日でその時は元気だったんだけど、次の日に具合が悪くなって病院から電話がかかって来て、すぐに病院に向かった。ベッドで病気と闘っている親父を見ていて、最後に一言「頑張れ」って言われた。その後親父は亡くなって、それが遺言。

何を頑張ればいいのか言われなかったけど、その時俺頑張らなんといけんとばいねと感じた。親父的にも多分鳴かず飛ばずで、まだ農業やりたくて、不甲斐ない結果で終わってしまったから、自分の息子に後を託したんだろうなって思った。激励だけど、その時俺は農業をするために生まれたんだ!と悟った。

180°人生が変わろうとしていて、それに俺は運命を感じたから逆らわなかった。人に言われたわけでは無くて自分で決めて農業した。

短い命で亡くなった親父の分の2倍生きないといけないそういうつもりでやれた気がする。親父が亡くなったことが僕の人生を変えたからそう考えると、俺は運がいい人間なんだろうなと思ったし、僕が強いのはある人の死が力をくれた気がする。そこから進路も熊本にある農業高校に変更して進学し、卒業してすぐに家を継いだ。

 

――14歳で人生を決める決断をした河地さんの決断力は並大抵のものではないと思います。家を継がれてすぐに有機栽培をされたんですか?

そう。小さい時から、市場に出荷する(化学農薬・化学肥料をかける)畑と家族が食べる(無農薬)畑があり、作り分けをしていた。

それなら俺は将来、無農薬で農作物を作ろうと決心した。

最初は慣行栽培と有機栽培の複合経営をしていて、少しずつ有機栽培にシフトして行った。当時は有機栽培って言葉が出る前だったから有機栽培をしている人は少なかった。

 

――有機栽培をしてみて辛かった事と、良かった事を教えて下さい

河地:辛かった事は何回かあって、10何年前だけど家内に農業を辞めて違う仕事をしてくれって言ったことある。病院の調理師になったり、中学校の用務員になったり、たまたまその年は災害が多くて、自然栽培をしていると災害の影響を直に受けるから。

そうやって苦しい時期が何年か続いて、2002年に有機JAS農作物・加工認定を取得した。2004年に開催された熊本県の食品加工コンクールでは入賞、加工事業に力を入れることで家内とまた一緒に農業をすることが出来た。その年に、フランスのパリで開催されたオーガニック見本市に海外販促を目指して二度出店した。

良かった事は、自分の米を新米で炊いて食べた時にこんなに食べやすいんだって気づいたし、自分で正直にうまいねって思った。収量が取れなくても最後は美味しいものさえ作ればいいのかなって思うようになった。作物が必死になっているから、その真剣さの美味しさ・自然の味もあると思う。普通の肥料やった方が美味しいと思うけど、なんかそういう人為的な甘さじゃなくて、色気とかでもなくて鍛えられたような素直に納得させる創作しないおいしさ。

本来の味を楽しめるってところは凄くいいよね。ご飯だけで食べられるから、変におかずを探す欲求が無くなり、他には何もいらない。プーンって匂いがして 食べたくなる。

 

――最後にこれから成し遂げたい夢を教えて下さい

河地:駆け込み寺を作りたい。

ガオー!塾(野菜・米の農業体験)の様子

一生懸命走ったからもうやり残したことはない。今からの僕の楽しみなんだけど、若い人が気軽に来れる場所作りをしたい。そういう終わり方をしてもいいんじゃないかな。いろんな人が家に遊びに来て遊んで帰るのを見るのが好きだから、みんなで餅をついたり、稲刈りをしたり、果物でジュース作りや畑で遊んだりしたい。

仕事は必要に応じてすればいいよ。

 

――今回の取材で河地さんの取材から感じた事は、圧倒的人生経験だった。

そんな河地さんから発せられる言葉には重みがあった。でもその言葉は人を威圧させるような角張ったものではなく、その人を包み込んでくれるような丸みを帯びたものだった。質問をしやすい雰囲気を作って頂き、円滑に取材をさせてもらいました。

取材をさせてもらう中で自然栽培の必勝法みたいなものが聞けると思っていたのですが、自分の浅はかな考えとは打って変わって、河地さんから聞けた話は有機栽培を切り開かれた先駆者の苦悩であり、人生の価値観が詰まった唯一無二性のあるもので、農業はやすやすとできるものではないと実感しました。

 

河地さんは終始自分の事を「遊び人」だからと言われていたが、そこには町おこしや絵本に対して本気でぶつかった一人の挑戦者としての大きな背中が見え、絵本の主人公であるガオーの面影を感じた。そんな河地さんが作る駆け込み寺には、僕のような農業や人生に迷った人や色々な世代の人がひっきりなしに来ることは間違いないと思います。

今は鳴かず飛ばずかもしれないが、きっといつか河地さんの作った創造物は評価され、求められる時代が来ると思うのでその時が来るのが凄く楽しみです。

 

 

河地さんの作った農作物はコチラから

 

Text & Photo by 小山瑠惟

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